歴史


縄文遺跡

 

 ①石器時代から栄えた地域である。

 ②縄文草創期の阿賀町(旧上川村)小瀬ヶ沢遺跡で、板山産黒曜石が発見されている。

 ③縄文前期~中期の青森三内丸山遺跡でも板山産黒曜石出土。

 ④縄文後期中野遺跡 - ヒスイや磨製石斧の製作を行っていた。

 


板山館跡

 

 板山には、館ノ越という地名の場所に中世の館跡があります(現在は、埋め戻して水田にしている)。室町時代後半から戦国時代(15~16世紀)の領主の館跡思われます。

 周囲に堀を巡らせた小さな館ですが、米沢街道へ至る道と会津街道とを結ぶ道の途中という交通の要衝であり、当時、この地を抑えることが重要であったと考えられます。

 中国製の輸入陶磁器や能登・越前産の陶器などが出土しています。

 


禹泉(うずみ)用水

 

歴史 

 二王子岳を仰ぎ見て右に視線を移すと、稜線がやや低くなった中腹に山の地肌が見える場所があります。それが、板山川水源地ホッタ切です。板山にとっては、この水源といくつかの沢からの水が合流して注ぐ板山川が、大切な生活・農業用水です。

 いまから270~280年前、江戸時代享保年間(徳川8代将軍吉宗の時代。新田開発が進められた)板山へ移り住んだ涌井與平が涌井勘左衛門や村人の協力を得て、新田開発を行うにあたって新たな水源地を求めたのがこの場所でした。

 山腹を掘削して水を引くという大変な難工事でしたが、もろい土質のため何度も土砂崩れによる埋没を繰り返したため、現在は隧道が掘られています。

 古老によれば、「昭和18、19年頃に掘られた隧道が中程の所で落盤したので、その補修工事に入った。昭和43年のことであった。コルゲート240枚、セメントなどを反別割で運んだ。砂は、発破をかけて崩し、やなをかけて取った。こうして、取水口のコンクリート工事が行われた。」とのことでした。

 江戸時代の隧道は、現在の隧道の上部にあり、非常に狭い隧道です。石喜本間家の援助により成し遂げられたものと伝えられています。

 平成9年には、土砂の崩落によって隧道出口が埋没したため、翌年全戸総出3日間かけて復旧工事を行いました。

 

名前の由来

 中国最古の王朝といわれる「夏」の国の王「禹」が治水に優れた人であったことから、「禹泉用水」と名付けたと言われています。

 

ホッタ切の源流

管理道路に架けた単管橋


 

狐の水引き伝説

 與平が新田に引く村中の水路の場所をどのようにするか思いあぐねていたところ、お稲荷様を信仰していた與平の前に、1匹の年老いた狐が現れ、初雪の朝、今の水路となっている線を歩いて見せたという伝説が残っています。